櫨谷城址

櫨谷城址

尾根の突端を利用してつくられた典型的な山城で、物見台、本丸、二の丸、堀切、土塁などが残っています。

櫨谷城(端谷城・衣笠城)

櫨谷川の源流あたり、櫨谷町寺谷の川沿いの北の丘陵に櫨谷城跡があります。尾根の突端(比高25メートル)を利用してつくられた典型的な山城で、南側に櫨谷川、東はその支流である北谷川、西は同じく支流の西の谷川に囲まれ、北側は山でふさがれた天然の要害の地にありました。城跡の高台からは櫨谷の全域だけでなく、遠く明石海峡まで見渡すことができたそうです。

城跡には、物見台、本丸、二の丸、堀切、土塁などが残っています。山すそには、「櫨谷城跡」の石碑が建ち、三の丸付近には満福寺が再建され、城主だった衣笠範景公の顕彰碑もあります。

櫨谷城を築いたのは、『如意寺旧記』や『如意寺寺社改』にみえる保司・衣笠氏といわれています。しかしまた、この城が、いつごろ築城されたかについて、いろいろ説があります。『赤松記』によると、戦国時代の永正15年(1518年)に室町幕府11代将軍・足利義澄の次男義晴(12代将軍)が、衣笠五郎左衛門範弘(範景の父)の館へ逗留していますが、この頃にはすでに城はあったのだろうといわれています。ただ、現在の場所に移ったのは範景の代だと思われます。

衣笠氏

ところで、衣笠氏とはどうのような一族だったのでしょうか。
衣笠法眼某が鎌倉時代中頃に櫨谷の保の保司となり、親族と共に明石へ移ってきた氏族だといわれていますが、衣笠氏は村上源氏から出て、赤松氏になり、いわゆる赤松36家、同88家のひとつとされています。

後の記録で見ると、衣笠氏は、三木別所氏の一族で、櫨谷庄、玉造庄の一部、すなわち今の櫨谷町全域と、押部庄の内細田付近から平野町繁田に至る地域を領分とする在地領主だった、とあります。

応仁の乱の武功により姓を「衣笠」と改姓した別所祐盛を初代とし、祐盛→範弘→範景と続きました。範景は父範弘の跡を受けて池谷城の城主となり、後に衣笠城を寺谷の地に築いて移ってきたのです。三木別所氏に属した範景は、天文23年(1554年)、別所方7か城のひとつとして三好長慶と戦って敗れ、それ以降三好の配下として「播州三木の衣笠衆」の名で別所衆や明石衆、間嶋衆などと共に多くの戦いに参加しています。天正6年(1578年)から始まった「三木合戦」では三木別所方として参加、平田合戦などで活躍しています。

衣笠範景には8人の子どもがいましたが、その後のことは良く分かっていません。しかし衣笠氏の子孫は、神戸、明石、姫路、岡山などに現存しています。

藪に埋もれて残る櫨谷城本丸跡と二の丸跡

左:藪に埋もれて残る櫨谷城本丸跡
右:同、二の丸跡

衣笠範景金色の位牌(宝福寺)と、衣笠範景公顕彰碑(満福寺)

左:衣笠範景金色の位牌(宝福寺)
右:衣笠範景公顕彰碑(満福寺)

満福寺境内にある衣笠一統の墓(中央が衣笠氏)と、その左は戦没者の碑

満福寺境内にある衣笠一統の墓(中央が衣笠氏)
その左は戦没者の碑

城跡の構造

城の東と西の両面は自然の断崖となっていて、南北にやや細長い高台で、南側ほど低くなっています。

いちばん北の最上壇、約13アールの広さのところに本丸があり、その北西隅に、さらに一段高く天守台をつくっていました。

本丸の南で、3メートルほど低くなった約13アールほどの地には二の丸がありました。本丸と二の丸の周りは、柵あるいは土塀で囲っていて、明治初期ごろまでその一部が残っていたそうです。

最上壇の本丸北側には人工の深い堀切がしてあり、その土は本丸に運び上げていたとみえて、北側の尾根より本丸の方が5~6メートル高くなっています。

満福寺に立てられた「端谷城復元図」と記録

満福寺に立てられた「端谷城復元図」と記録

福谷城ー櫨谷城の支城群ー

櫨谷川沿いには、城ケ谷城、福谷城、池谷城、菅野城、友清城、高和城など、櫨谷城(衣笠城)の支城がいくつかあり、守りを固めていました。

まず、福谷城は交通の要衝「櫨谷庄中村」つまり、県道小部明石線(櫨谷街道)と県道神戸加古川線が交差するところ(現在の福谷交差点付近)にありました。櫨谷城がある寺谷から、櫨谷川沿いに約1.5km南西に下ったところです。この福谷集落に向かい、南東側の丘陵から西へ尾根が伸びています。尾根は先端部で南西方向へカーブしていますが、福谷城はこの尾根先端部に築かれていました。先述の二つの道路を望む位置で、秋葉神社があります

この城は歴史的に見ると、「端谷の衣笠五郎左衛門館」といわれていました。土塁、堀切で四方を囲んだ方形の館跡が残っています。なお、衣笠五郎左衛門は永正17年(1520年)置塩城から当時の公方(足利義晴12代将軍)を連れた赤松義村を迎え入れたといわれている武人。

城ケ谷城は福谷城と東西の台地上に旧道をはさんでありました。大地上の四つの郭に、堀切、土塁などを残しています。

城跡の今後

櫨谷城の西方の丘陵地帯では、西神ニュータウンの開発が進められており、北方の山を越した押部谷町でもニュータウンの建設が進められています。ゴルフ場もこの近くに開設されており、南方の伊川谷町に接する丘陵地帯もゴルフ場として近く開発されるようです。

すぐ近くの周辺で、このような開発が進められているわけで、その波がいつこの地に押し寄せて来ないとも限りません。これらの城跡が、開発のために姿を消したという例は数多くあります。平野町の福中城跡、玉津町の枝吉城跡など、すでにその面影をとどめていません。

端谷城支城(砦)配置図 「櫨谷城」より

端谷城支城(砦)配置図 「櫨谷城」より

城ケ谷砦跡実測図 「櫨谷城」より

城ケ谷砦跡実測図 「櫨谷城」より

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