櫨谷のあゆみ

櫨谷のあゆみ

明石郡から神戸市へ

山陽道八か国のひとつ播磨国に属していた明石は、往古、応神天皇の朝には明石国造が置かれ、国郡制定の時に明石郡となっています。国府は播磨郡(現在の姫路市)に置かれました。この国の沿岸には、古くから港が開かれ、かなり繁盛し、著名になっていたといいます。

元和3年(1617年)、小笠原忠直が明石十万石に封ぜられ、その後領主が代わり、天和2年(1682年)松平忠明が八万石となって迎えられ、以来、子孫が続いて明治維新を迎えることになります。

明治2年(1869年)明石藩主であった松平直致(なおむね)は、藩籍を奉還し、あらためて明石藩の藩知事に任ぜられました。その後明石藩は明治4年7月、廃藩置県により明石県となります。やがて明石県は同年11月姫路県に吸収された後、姫路市播磨県と称されます。そして明治9年府県制の改変で現在の兵庫県になったのです。こうして福谷・友清・寺谷・池谷・長谷・栃木・谷口・菅野・松本の9か村は、明治22年櫨谷村として兵庫県明石郡を構成する村のひとつとなったのです。

その後、大正8年(1919年)11月、明石郡から明石市が独立するに至りました。

神戸市は終戦後、有馬など周辺お合併を促進して市域の拡大を続けていましたが、明石市は合併を望ます、明石郡の櫨谷村は、昭和22年(1947年)、神戸市に合併することとなり、垂水区のスタートとともに、同区に編入されたのです。さらに昭和57年には神戸市西区が誕生して、櫨谷村は西区に編入されて現在に至っています。

櫨谷は播磨の一村として明石の文化・経済圏に属していましたが、神戸市が垂水区制をしいたとき、明石郡から同区へ移ったのです。

西区の誕生まで

西区の誕生まで

「はせたに」の読みが記されている道路標識。現在は「はぜたに」と決められている。

「はせたに」の読みが記されている道路標識。現在は「はぜたに」と決められている。

櫨谷の立地

櫨谷は、明石川の上流・櫨谷川に沿ってほぼ東西に帯状に伸びる農村地帯です。川の両側は、標高120~140メートルの山並みが続いています。

この櫨谷川に沿って、上流から、寺谷、友清、福谷、池谷、長谷、栃木、谷口、菅野、松本の順で、各集落が続いています。これが櫨谷を構成する、古くからの村落です。

一方、川の両側に続く山並みは、神戸市が昭和45年頃から着手したニュータウンの開発地で、現在では北側を西神住宅団地、南側を西神南住宅団地として造成し、人口定着が進んでいます。なお、この一部にも櫨谷町の町域が含まれています(昔の山林部分)。

櫨谷町の町域は、東は伊川谷町、西は平野町、南は玉津町、北は押部谷町に接しています。

櫨谷川

文献

櫨谷の由来

櫨谷は榛谷または端谷とも書かれていた時代がありました。榛谷の榛は、はしばみのことで、昔この地に大きな榛が繁茂していたことからこの名がつけられたと、如意寺の古文書にあるそうです。しかしこれは取るに足らない説だといわれてしまいました。

また、『如意寺日記に』

大化元年(645年)寺谷の堂屋敷洞窟に法道仙人がいた。彼は天竺(インド)の僧で、神通力をもってこの播磨に飛来した。ある日、我は毘沙門天であるという老人に、谷口の櫨の木で地蔵を彫るように命じられた。仙人は早速地蔵を彫り、この寺を開いた。このため、この谷を櫨谷と呼ぶようになった。
と記されています。

福谷に自生する櫨の木

福谷に自生する櫨の木(提供:池内正良氏)

文献

如意寺日記

櫨谷のはぜの語源は、土師谷(はせたに)からきているというのも、説得力がありそうです。垂仁天皇(第11代天皇といわれる)の33年に土師職がおかれ、陶器を作る土地が決められました。土師の長官に野見宿禰(のみのすくね)が任ぜられ、陶器の製造に従事するものに対して、土師という姓がつけられたといわれます。

当時陶器のことをスエモノといいました。ものを入れて据え置くというのがその言葉の始まりだと思われます。
時がたって、この土師の子孫が現在の櫨谷へ住み着き、明石で須恵器を造るようになりました。そこでは、色々な形の瓶が造られたようです。
製造が盛んになって、現在の玉津に、土師谷で作られる陶器類の管理監督を行う役人が常駐するようになった、と記録されています。
陶器が盛業へと発展したのは、醍醐天皇の延喜時代(901~923年)といわれています。明石郡の土師郷の製陶人たちは、土師連(はしむらじ)と呼ばれていました。雄略天皇(第21代)の17年に、朝夕御膳に供する清器が造られるようになりました。清器とは清浄な器という意味で、この作業をするものはスガと呼ばれていました。現在、櫨谷の菅野にこの名残があります。

先史~古代の櫨谷

櫨谷の栃木集落の西北台地上から銅鐸の鋳型が出土しています。もともとこの丘陵上には、弥生時代の集落があることで知られていました。更に、菅野集落の丘陵上にも弥生の青谷遺跡があります。ここからは弥生土器や石戈(ほこ)などの石器が採集されています。

古墳時代になると、櫨谷川の周辺に人々は居を移したようです。この川筋から遺跡が多く出ています。古墳も、松本古墳、長谷の光松古墳のほか、池谷古墳群、釜井谷古墳群、若宮古墳群などがみられます。

前方後円墳・玉津王塚古墳(模型)

前方後円墳・玉津王塚古墳(模型)

しかし、櫨谷町における古代の歴史はまだ十分明らかにはなっていません。その手がかりとなるのは、三つの水系ー明石川(押部谷)、櫨谷川(櫨谷)、伊川(伊川谷)ーを中心とした古代寺院です。押部谷の性海寺は奈良時代の行基の開基との伝承があります。同じく押部谷の近江寺は法道仙人を開基と伝える真言宗の寺です。また、伊川谷には天台宗の古刹で、霊亀2年(716年)創建と伝える太山寺があります。そして櫨谷町には、これも法道仙人開基とする天台宗の如意寺があります(『元亨釋書』)。櫨谷の古代は明石川を中心とした名刹の発展と共に展開したようです。

西区押部谷町・養田遺跡(弥生後期)

西区押部谷町・養田遺跡(弥生後期)

西神ニュータウン古墳遺跡(古墳時代後期、5~6世紀)

西神ニュータウン古墳遺跡(古墳時代後期、5~6世紀)

地図

@2015Google、地図データ@2015Google、ZENRIN
櫨谷川、伊川が明石川に合流し、明石海峡へと注ぐ

南北朝のころの櫨谷

鎌倉時代の元弘3年(1333年)、後醍醐天皇を攻める幕府軍に対して防戦するべく、3月21日、護良親王の令旨が各地に飛び、播磨の国の明石郡伊川谷村にある太山寺に蟠居する僧兵グループにも戦列に参加せよとの令旨が到着しています。太山寺は当時から修験道系の寺でした。おびただしい僧兵のなぎなたが林立している風景を、櫨谷地方の人々もまぶたに描いたことでしょう。

この僧兵は、日頃から、六甲山系の摩耶山を本拠として動いているものたちで、このときの戦闘で、双方にかなりの死傷者が出たことが記録にあります。

時を同じくして、楠木正成が、千早城を中心にして戦端を開いています。太山寺の「衆徒注進状」には、衆徒2人が討ち死にし、4人が手負いしたと書かれています。

建武3年(1336年)5月、足利尊氏の大軍は京都を目指し、大蔵谷で合流しています。昔、源義経が鵯越へ行くために通ったといわれる垂水や明石一帯に広がる大地である印南野(いなみの)に足利尊氏が到着したのが2月と記録にあります。

延元元年(1336年)5月、足利尊氏の水軍は強い西風を受けて高波の播磨灘を一気に突き切り、大蔵谷に着船しました。先人の水軍は須磨の沖まで進んで停泊しました。すでに須磨の一の谷には、楠木正成の物見兵が出ていたといいます。湊川決戦の幕開けの前夜のものものしさが目に浮かぶ風景です。

櫨谷地方の人々は、太山寺あたりのうわさから、この決戦の切迫した空気を知っていたであろうことが想像されます。

太山寺三重塔(県指定重要文化財)

太山寺三重塔(県指定重要文化財)
本尊は大日如来、四隅に四天王を配す

太山寺本堂(県指定重要文化財)

太山寺本堂(県指定重要文化財)
本尊は薬師如来で「昔、明石の浦で網に掛かりたもうた霊仏」といわれる秘仏

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